デート、無意識

先日、株について書いた。
そのままダラダラと仕事したり、行動せずに考えたりしていた。
すると、ライブドア騒動だ。
決断と行動の人(と言われている)ホリエモンが日本どころか、世界の株式市場を震撼させてしまった。
おいらが、株を始めていたら、いきなり塩漬け株を抱え込むところであった。
善し悪しは、わからない。
ただ、得はしなかったが、損もしなかった。
株を始めるチャンスをまた一つ逃しただけだ。



昨日はデート。
小雪降るなか、車を飛ばして美術館とボーリングとブラジル料理を楽しんできた。
たしか、これで4回目ぐらいのデートだ。
そして、なにも起きていない。
なにも起きていない。



ここ2〜3日、「意識と無意識」について考える。
仕事柄、家庭内暴力の加害者・被害者を見ることが多い。
加害者(たいていは夫だ)は、一見あたりの柔らかい、どちらかと言うと気の弱そうな感じの人が多い。ところが、家庭に入ると暴力をふるっているわけだ。

この外面と内面のギャップが思いきり人間臭い。
外面は、修養と努力によって育てていくことが出来る。
ハキハキと話し、ときにはジョークの一つも言ってみる。場合によっては、より魅力的な外面を身につけることも出来る。
しかし、内面はもう少し複雑だ。
これは努力ではどうしようもない部分がある。

中学の同級生でいつもニコニコしている奴がいた。
彼は運動も勉強も出来るほうではなかったが、笑顔を絶やさないので皆からはそれなりに扱われてた。つまり、敬意も払われないが虐められるほどではない、という扱いだ。
自分も、彼はいい人なんだろう、という程度の認識だった。
が、ある日あまり見たくない光景を見てしまった。
彼は強いものにはニコニコ(へこへこ)対応していた。
では、自分より弱いもの(虐められっこ)にはどう対応していたのだろう?
その光景は、結構衝撃的だった。
彼は弱いものを怒鳴りつけていた。
しかもいつもの笑顔は消えて、冷たく陰険そうな顔つきになり、口調まで変わっていた。
しかし、そこに強いものが絡んできたとたん、瞬時にいつものニコニコフェイスに戻ったのだ。
このギャップの大きさは、中学生の自分をクラクラさせた。

話がずれた。
無意識を押さえ込むことは出来ない。
それは出てしまう。
深いところで人格を統制している。

しかし問題はそこではない。
その無意識がどんな色をしているかが問題なのだ。

ときどき、この人は無意識とかないんじゃないか、と思うような人がいる。
逆に、無意識が出すぎているような人もいる。
あるいは、良い無意識もってるなぁ、と羨ましくなるような人がいる。
もちろん、その逆もある。これは関わっていてキツイ。

そして、不幸にして無意識が荒れた状態にあるものは、それを変えるには膨大に時間がかかる。
人生や周りの人に恵まれればいいだろう。
しかし、自分ひとりしかいないときにはどうすればいいのか?
もはやそれは、信仰の領域に関係してくるのではないかとすら思ってしまう。

無意識は自分では決定できない。
気づいたときには、すでにある色が与えられている。
それを自分の色にすることは、困難だが可能であると信じたい。