このページのタイトルとして使用している「未経験の惑星」という言葉は、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」から拝借したものである。

理由の一つ目は、何より語感が素晴らしかったら。
二つ目は、この言葉に込められたクンデラの考えが、自分を揺るがせたから。

生まれたての赤ん坊は、何も経験していないゼロの存在である。
では、青年はどうか?
彼もまた、青年という現在については何も経験していない。
では、中年は?
老人は?

答え:現在に関しては、すべてゼロである。

つまり人間は、いまこの瞬間も、現在を初めて経験している。
言い換えれば、時の流れはループしない。
ヴォネガットが「タイムクエイク」で試したアイデアのように、24時なると自動的に時計の針が巻き戻り、「昨日」と寸分違わぬ「今日」が繰り返されるということはない。
経験されたことは決して繰り返されず、時間は常に、新しい時を刻みながら進む。
(「〜してたら」とか「〜してれば」といった後悔の怨念が決して成仏できないのは、戻ることも繰り返すこともないこの時間の原理にある。)
その時間上にあって、われわれは常に、新しい経験を重ねてゆく。
この瞬間のすべてが初めての経験となり、生まれてから死ぬまで、未経験の惑星に生きているのだ。

この考え方が、自分を揺るがせた。

同じような考え方に、阿部公房が「死に急ぐ鯨たち」というエッセー集のなかで書いていた話がある。

「今から1分の間に地震がくるか一万円の賭けをしましょう。」
さて、皆さんはどちらにかけるだろうか?
自分は、「こない」にかける。
ほとんどの人が、「こない」に賭けるだろう。
当たり前である。
地震がくるその日まで、「こない」に賭け続けるだろう。
現にわれわれの生活は、そうした楽観的な見通しのもとに成り立っている。

しかし、少し考えてみて欲しい。
地震はいつ起きても、おかしくない。
大震災や地下鉄事件を例に出すまでもなく、突然何が起こるかは予想がつかない。
加えて、テロや通り魔が横行する現代である。
現在の状況が、明日もあさっても続く、とは断言できない。
われわれの日常感覚を支えているものは、想像力の不足からくる楽観主義ともいえる。



杞憂という言葉がある。
語源は、とある杞の国のひとが、空が落ち地が崩れたらどうしようと心配で眠れないほど悩み、仲間から嘲笑されたという中国の故事である。
転じて、取り越し苦労のことをいう。



クンデラと阿部公房の考え方を踏まえると、この言葉の2つの側面が見えてくる。
1つは、過剰な想像力は、日常生活を営むためには邪魔者にすぎない、ということ。
2つめは、この日常感覚は、あくまでも生きる知恵でしかない。日常が繰り返されるという厳密にはありえない楽観主義に支えられているということ。

そして、この日常感覚というフィルターを外したところに初めて、未経験の惑星という地平が見えてくる。

たまには、そんな視線で世界を見てみるのはいかがでしょうか?
少しは世界が、詩的に、リアルにみえてくるかも。