惨敗

わが草サッカーチームの今季初試合。

初夏を思わせる太陽が照りつける中、久々にボールを蹴る。
結果は、7−0の惨敗。

途中、試合が荒れて相手チームとマイチームで口喧嘩となる。
相手は血の気の多い若いあんちゃんが多いチームで昨季準優勝。
マイチームは社会人の多い構成で昨季全敗で、最下位。
当然のことながら、相手チームの侮辱の言葉はむかつく。
いきがった高校生のような態度と言葉である。

もちろん、こちらもやり返す。
自分もやり返す。
睨み返したり、わざと荒いプレーをしたりする。
けれど本当はプレーでやり返したい。
ここにジレンマが生まれる。
なぜなら、相手のほうが圧倒的に上手いからである。

たぶん自分のほうが教養はある。
仕事も出来るだろう。
しかし、サッカーをする肉体という厳然たる事実のまえでは、それは無力化する。
フィールドの上では、サッカーが上手いか下手か、それだけが基準である。
だから、今日も試合後は悔しくてしょうがなかった。
負けてもチームメイトとヘラヘラ笑いながら、敗戦を語ることだけはしたくない。
負けたらその事実を受け止めて、向上に励むか辞めるかすれば良いだけのことだ。



なんて、堅苦しく書いたが、自分が経験もないサッカーを続けている理由の一つはここにある。
現代日常生活をしていると、よもすれば自分の身体を忘れて生活することすら出来る。
要は、脳が中心であとの肉体は付属物である、という生活だ。
しかし、これには落とし穴がある。
脳は夢見がちである。
しかも、はっきりした判定基準がない。
脳というか考えだけは肥大化してしまうのだ。
引き篭もりの何パーセントかこのタイプだと思う。
脳化が進み、身動きが取れなくなってしまう若者たちだ。

それぞれタイプはあるが、ともすれば脳の肥大化に偏りがちの文系人間である自分はまさにこのタイプであるはずだ。
つまり、自分がサッカーを続けている理由は、バランスを取ることにあるのだ。
脳内では自分のプレーはジダンであり、アンリである。
しかし、実際は二十歳のヤンキーにチンチンにやられているおっさん過ぎない。

厳然たる事実。
これを味わいたくてサッカーをしているのだろう。
もちろん負けるのが好きなわけではない。
しかし、今自分の身体がどれだけ自分の思うとおりに動くのか、
どれだけイメージとのずれがあるのか、
ということを手ごたえをもって自覚しておくことは、
思った以上に大事なことだと思う。
身体を無視することはできない、と思い知るのである。



誤解のないように最後に書いておくと、当然サッカーが好きだからやってます。
少しでも上手くなったり、走れるようになったりしたり、
チームが勝利したときには、本能的に悦びが溢れてくるのです。
つらいけど楽しいんだな、これが。



さっ、能書きたれてないで、ガンガン走りましょう!おれ!